日本と親和性が高いと聞いてベトナムに進出してみたものの、報連相がないなど「これでは仕事が回らない…」とのため息もよく耳にします。新興地区の工業団地では、「育成どころか、食事の仕方・トイレの使い方から指導している状況」との声も伺います。ベトナム人材への期待とは裏腹に、思ったようなスピード感で事業が進まない。ベトナム人材の仕事上の成熟度も、人材経営の落とし穴となります。

日本と親和性が高いと聞いてベトナムに進出してみたものの、報連相がないなど「これでは仕事が回らない…」とのため息もよく耳にします。新興地区の工業団地では、「育成どころか、食事の仕方・トイレの使い方から指導している状況」との声も伺います。ベトナム人材への期待とは裏腹に、思ったようなスピード感で事業が進まない。ベトナム人材の仕事上の成熟度も、人材経営の落とし穴となります。

 

  • 本格的な外資系企業の進出が始まってまだ10余年

ベトナムが市場開放に舵を切ったのは1986年のドイモイからですが、実質的に外資系企業がベトナムに進出できるようになったのは、1994年のアメリカからの経済制裁が解除されて以降。外資系企業が大挙して進出を始めたのは、ベトナムがWTOに加盟した2006年からとなります。

外資系企業の進出以前より、ベトナム企業は国営が勢力を誇っており、指折り数えるほどの民間大手を除いては、ほとんどは家族経営の零細企業です。外資系企業や民間企業での働き方がベトナムに広まり始めてからまだ10年余のなか、大半のベトナム人材には国営企業や家族事業での働き方が一般常識として捉えられています。

 

  • 1990年まで続いた職業分配制度

ベトナム戦争は、フランス植民地化で支配下にあったベトナム人がホーチミン氏を旗頭にベトナム共産党として集結、ベトナム民主共和国を打ち立て、フランスに従属していた南ベトナムを追い出し・吸収することによって幕を閉じた革命戦争です。

このため、戦時中はもとより戦後はなおさら、人民の統率に向けて、共産党による中央集権的な政治・経済運営が進められました。そんな中、全ての大学・短大・専門中学卒業生に対して、国家計画委員会が定めた人材配置計画に従って就職先を配分する、職業分配制度が1975年に明文化され、1990年まで運用されています。高等教育を受けたベトナム人材は将来の幹部候補として政府機関・国営企業に組み入れられ、また政府機関・国営企業の人材需要に応じて高等教育を受けられる人数枠が絞られました。

この職業分配制度のもと、ベトナムの高等教育機関は、政府機関・国営企業で働く人材の養成所と性格づけられ、高等教育を修了した人材は政府から指名された任務に就く、という就職感が根付いたように思えます。一方で、高等教育機関に進めない大半のベトナム人材は、実家の農業・商業・飲食店・軽工業などを継ぐか、近隣の家族事業の手伝いに出向くなどが主要な就業形態となります。

 

  • 「会社とは?」から始めるベトナム人材育成

こうした背景を鑑みれば、決められたことをただ黙々と続ける、言われたことにただ純粋に従う、会社での過ごし方を知らない、といった日々目にするベトナム人材の光景にも合点がいきます。更には、まだまだ就労人口の75%が自営・家業に属するベトナムにおいては、会社で働くということ自体が新しい就労形態です。

そこで、お勧めするのは「会社とは?」の次元から始める人材育成です。一般に会社といえば政府の一機関として手続き業務を淡々とこなす国営企業のイメージが定着しており、また近所の家族の手伝いに雇われるアルバイトの感覚で従業員募集に応じる作業者がいるが故にも、民間企業の概念については採用時から理解を共有する必要があります。

特に日系企業においては、日本企業に特有の従業員の経営参画への期待を、「会社は人なり」や「会社は、会社と従業員が共有する目的の実現に向けた協働の場」、「給与は、従業員の貢献度に応じた、会社成果の分配」といった概念の共有を通じて伝えていく必要があります。

こうした理解が共有されていないと、もとより同僚や関係部署のために行う報連相や5Sは、自身のためだけの形だけの実践にとどまります。

 

「人材育成は国家100年の計」とも言われます。日々ベトナム人材の仕事の価値観の違いを目の当たりにしていると、単に人材育成は大業であるというだけではなく、新たな価値観や思想が根付くには100年かかるということに気づかされます。

子供は価値観や思想の多くを親から学びます。現世に生きる3世代、100年の価値観や思想が一つに染まって後、自ずと価値観が次世代へ引き継がれていくのではと考えさせられます。