日越ともに年も新たまり、今年も頭の痛い人事評価の季節がやってきました。結果や評価はともあれ、なんとか自身の期待する給与水準に近づけるため、あれやこれやと理由を積み上げるベトナム人材に時間を取られる評価面談は気の重い年中行事です。そんな評価面談でベトナム人材から良く聞くのが「それはアンフェアだ」というコメントでしょう。そもそもフェアとはなんなのか、日本人とベトナム人ではフェアネスという言葉への理解に違いを感じます。

 

  • 公平に重きを置くベトナムと公正を重んじる日本?

似て非なる日本語に公平と公正があり、多くの日本人は両方の意味を込めて“公平”と表現しているように思います。公平・公正ともに翻訳をすると、英語では“Fairness”、ベトナム語では“Công bằng”と訳され、公平と公正の違いは意識されずに、ベトナムでも使われているようです。

そこで、あらためて公平と公正の違い調べてみると、公平とは“2つ以上のものへの対応や扱いに差がないこと”、公正とは“個々のものを同一の基準に照らして対応や扱いを決めること”とのことです。例えば、サッカーの試合で退場者が出てチーム間に人数差が生まれることはままありますが、「公平」の観点からすれば、こうした状況下での試合は「公平」ではないとも言えましょう。一方でルールに従って退場者が出たのだから、この試合は「公正」に行われたとも言えます。

どうにも、評価面談での議論は「公平」を主張するベトナム人材と「公正」に評価を行おうとする日本人とのせめぎ合いとなっているようにも思えます。ベトナム人材は、同僚と比べていかに自分が不利な立場にあるか(家が遠い、家族が多いなど)や、自身が勝っているか(より難しい仕事だった、困難な環境も克服した)など同僚と比べた評価の公平性を主張します。一方で日本人(評価者)は、状況がどうあれ結果は結果、評価基準に照らした公正な評価結果を受け入れるように主張します。

日本でも「三方一両損」といった逸話で語られる「大岡裁き」のように、紛争を丸く収める判断を人情味があって良いとする側面もあります。しかしながら、ケースバイケースで判断が異なる「大岡裁き」は法律家からは正しい裁きではないとの意見が多く、また一般には「車がいなくても赤信号では止まる」といったように時々の状況より規範を重視するのが日本人的な考え方とも言えましょう。

一方でベトナムでは、「公正さ」よりも個々の事情を斟酌した「公平さ」がより尊重されるように見受けられます。裁判での判決などの例を見ると、麻薬を中国から密輸したベトナム人女性が、学歴が低く、また夫と子供2人を中国に残していることから極刑を免れ、終身刑へ減刑されたなど、日本では考えられない個人の事情に応じた情状酌量がされています。また、労働法にも有給休暇での往復移動日数が2日間を超える場合は3日目以降は追加の有給休暇が処遇されるなど、個人の事情に配慮した規定があります。

改革開放以前の皆が同じ生活水準であることを良しとする風習の名残か、総中流意識と言われる日本と異なり、格差が前提にあるベトナムだからなのか、定かではありませんが、ルールはあるものの、個別事情に応じて斟酌されるのが好まれるように感じます。

 

  • 公平と公正を峻別し、「公正」に仕事を回す

一般にベトナム企業では日本企業以上にルールや罰則が多く、弊社のような教育事業者が研修講座を開催する際にも参加者一人一人が会社と研修契約を結び、欠席やテストの不合格があると罰金を徴収されるなど、非常に厳しい条件の下で仕事をしています。しかしながら実際の運用上はトップの強力な権限のもと、個別事情に応じた采配がされており、ルールは「公正」には運用されていません。むしろ個人の事情やその人の仕事上の価値を斟酌した采配の上手な政治家タイプの管理者が有能な管理者とも言えましょう。

さりとて、日本人はこのような微妙なさじ加減を運用する能力にはもとより長けていませんし、政治家タイプのベトナム人管理者を雇っても、その人が抜ければ後には混沌が残るだけです。ベトナムの法制度も徐々に判例主義を取り入れ、同一事案は同一の刑で処するように変わりつつある状況を鑑みれば、時間が解決していく問題にも思えます。

勤続・経験年数で処遇するのが公平と考えるベトナムの伝統的な考えはむしろ排し、社会や人はもとより不公平なもので、どのような状況下にあれ公正に同じルールのもとで競争をしていくのが市場経済下での民間企業のあり方だと徹底していく必要があるのかも知れません。

ともすれば、意味を曖昧にしたまま使ってしまいがちな言葉の一つが「公平と公正」と思います。受け止められ方が異なることを前提に、あえて「公平」という言葉は使わず、ルールや標準をベースに仕事を回す「公正さ」を意図的に流布していく必要があるやも知れません。